長崎新地中華街
長崎の中の中国散策


唐人屋敷跡図
(長崎名勝図絵より)
鎖国時代、長崎は海外文化の華を咲かせた。西洋文化とキリスト教をもたらしたポルトガル、オランダ。そして風俗、文化、宗教においてもっとも影響を与えた中国。
何百年の時を重ねても、長崎は今なお「おくんち」「精霊流し」「ペーロン」などの祭り、うら盆の行事、名物料理にと、日常生活の中に中国色を色濃く残しています。
また街中には唐人屋敷跡を残す館内町、唐寺のある寺町通り、唐人たちの心の支えであった孔子廟などが点在し、当時の長崎人と中国との密接なかかわりの足跡を見ることができます。


◆ CONTENTS ◆

●唐人屋敷跡  ●唐寺  ●稲佐悟真寺国際墓地



龍踊りの図
(唐蘭館絵巻より)

【唐人屋敷跡】
●JR長崎駅からのアクセス
◇市電
長崎駅前から正覚寺下行きに乗車し、築町電停で下車、徒歩8分。

◇バス
・バス停長崎駅前南口から長崎新地ターミナル行きに乗車し、長崎新地ターミナルで下車、徒歩8分。
・バス停長崎駅前から長崎市コミュニティバスらんらん(循環バス)に乗車し、長崎新地ターミナルで下車、徒歩8分。

◇車
長崎駅前から約6分。


創建
寛永12年(1635)から中国と貿易ができるのは長崎港だけになった。来航した唐人たちは、はじめ長崎市中に散宿していたが、密貿易が増加し問題となっていったため、幕府は鎖国後の出島と同じように、元禄2年(1689)、唐人たちを収容させる唐人屋敷を建設。唐人屋敷は長崎奉行所の支配下に置かれ、町年寄以下の地役人が管理した。輸入品の主なものは薬種、砂糖、織物、陶磁器。持ってきた貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日まで唐人屋敷で生活していたといわれる。
天明4年(1784)の大火で関帝堂を残して全焼し構造もかなり変わったが、この大火の後、唐人は自前の建築を許されるようになった。現在寺町・興福寺境内所在の国指定重要文化財の旧唐人屋敷門は、この大火後に建てられた住宅門と思われる。
鎖国時代、出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、安政6年(1859)の開国後は廃屋となり、明治3年(1870)焼失、その後は市民に分譲された。現在わずかに残る遺構としては、明治期に修復改装された土神、観音、天后の3堂の遺跡と、明治元年(1868)に福建省泉州出身者の手によって建てられた旧八門会所、明治30年(1897)に改装、改称された福建会館がある。

・土神堂(どじんどう)
元禄4年(1691)9月、土神の石殿を建立したいという唐船の船頭たちの願いが許され創立されたといわれる。天明4年(1784)火事で焼失したが、唐三か寺により復旧される。その後も数度にわたり華僑たちによって改修、保存に努めてきたが昭和25年(1950)に老朽解体され、石殿だけが残っていた。現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元工事を行ったもの。

・観音堂(かんのんどう)
瓢箪池の奥の石に「元文2年(1737)…」の刻字があるので、この年に建立されたと思われている。天明4年(1784)に焼失し、天明7年(1787)に再建された。その後何度かの改修の後、大正6年(1917)当地在住の中国商人により改築された。本堂には観世音菩薩と関帝が安置されている。また、基壇には「合端合せ」の技法が見られ、沖縄的な要素もうかがえる。入口のアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものと言われている。

・天后堂(てんこうどう)
元文元年(1736)に南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母を祀ったのが起源と言われている。寛政2年(1790)に重修。『長崎名勝図絵』には、門外左右の旗竿に、天后聖母の字が書かれた紅旗をあげ、風に翻っている姿が描かれている。現在の建物は、明治39年(1906)全国の華僑の寄付で建てられたもの。天后堂は関帝(「三国志の関羽)も併祀しており、別名関帝堂とも呼ばれる。

・福建会館(ふっけんかいかん)
 (正門・天后堂)
明治元年(1868)福建省泉州出身者により八門会所が創設。その後、明治30年(1897)に建物を全面的に改築し、福建会館と改称される。会館本館の建物は原爆により倒壊したため、正門と天后堂のみが現存している。正門は三間三戸の薬医門形式で、中国風の要素も若干含んでいるが、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など、主要部は和様の造りとなっている。これに対して外壁煉瓦造の天后堂は架構法なども純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は和様となっている。このように様式的には和・中の併存で、日中の交流の歴史が凝縮された建造物と言える。


唐人屋敷跡の石碑
籠町十字路:十善会病院横

旧唐人屋敷門
(寺町・興福寺境内所在)
(国指定重要文化財)


土神堂
(市指定史跡)


観音堂
(市指定史跡)

天后堂
(市指定史跡)

福建会館
(市指定史跡)

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崇福寺大雄宝殿
(国宝)

【唐寺】
●JR長崎駅からのアクセス(寺町界隈へのアクセスです。)
◇市電
長崎駅前から正覚寺下行きに乗車し、終点正覚寺下まで10分。

◇バス
・バス停長崎駅前南口から長崎バス田上、茂木行きで崇福寺入口まで10分。
・バス停長崎駅前から長崎市コミュニティバスらんらん(循環バス)に乗車し、崇福寺前まで13分。

◇車
長崎駅前から崇福寺通りまで8分。


●聖寿山 崇福寺(黄檗宗)
◇拝観料
 大人300円
 中高生200円 小学生100円
◇電話
 095-823-2645
◇住所
 鍛冶屋町7-5

・創建
寛永六年渡来した唐僧超然が寛永九年(1632)、官許を得て創建した。
檀家に福州出身の人が多いことから「福州寺」ともいう。
正保三年(1646)に上棟の「大雄宝殿」と元禄後期に改築の「第一峰門」は国宝に指定。

・崇福寺三門
以前の山門が台風で倒壊したため、嘉永二年(1849)、日本人工匠によって再建された。龍宮門ともよばれるが、中央と左右に門扉があることから三門ともよばれる。国指定重要文化財。

・崇福寺三塔
崇福寺の後山にあり、中央が隠元の髪寿塔、向かって右が即非の舎利塔、左が千呆の寿塔。長崎市指定史跡。

・崇福寺二ノ門(第一峰門)
元禄8年(1695)、中国寧波で切り組んだものを唐船数隻で運び、再建した。四手先三葉拱とよばれる組物は、国内ではほかに例がない。国指定重要文化財。

建物全体を隅から隅までじっくり見ていると、瓦の鬼の表情の違いや、門や扁額(第一峰門と書かれた額)のまわりに雲のようなカワイイ模様があるのに気付く。
第一峰門の裏扉には愛嬌たっぷりのコウモリ模様も。中国では縁起がいいらしい。

長崎の花街芸者・愛八(吉永小百合)と長崎学の第一人者・古賀十二郎(渡哲也)が長崎に古くから伝わる歌を探す旅に出かける悲恋物語の映画『長崎ぶらぶら節』のポスターはこの大雄宝殿前で撮影された。
正面の売店には、売店のおばさんが主演の吉永小百合と一緒に撮ってもらったプライベートショットが飾られている。

 


●東明山 興福寺(黄檗宗)
◇拝観料
 大人200円
 中高生150円 小学生100円
◇電話
 095-822-1076
◇住所
 寺町4-32

・創建
元和六年(1620)明国江西省の僧・真円が開山。
寺町に媽姐堂を建立。これが興福寺の起源となる。
寛永九年(1632)唐僧黙子如定渡来。興福寺二代目住持となり、大雄宝殿を創建。
如定は寛永十八年(1641)に寺を整備し、眼鏡橋を架けた。

・興福寺大雄宝殿
元禄二年(1689)に建てられたが、暴風で大破したため、明治十六年(1883)、中国人工匠によって、純粋の中国式の寺院として再建された。国指定重要文化財。


崇福寺三門(国指定重要文化財)
(楼門)

崇福寺三塔
(市指定史跡)


崇福寺第一峰門(国宝)
(海天門・唐門・二の門・中門・赤門)


崇福寺鐘鼓楼
(国指定重要文化財)

コウモリの装飾
崇福寺第一峰門裏側

長崎ぶらぶら節
ポスター撮影場所
(大雄宝殿前)

興福寺大雄宝殿
(国指定重要文化財)

興福寺山門
(県指定有形文化財)

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稲佐悟真寺国際墓地入口

【稲佐悟真寺国際墓地】
●JR長崎駅からのアクセス
◇バス
・長崎駅前南口バス停から長崎バス稲佐行きに乗車し、悟真寺前で下車すぐ。

◇車
長崎駅前から約5分。


長崎にある3ケ所の国際墓地の中で、最も古い歴史を持つのが稲佐悟真寺国際墓地。
他の2ケ所が公有地で長崎市が管理しているのに対し、ここはお寺の歴代住職によって守られてきたという歴史を持つ世界的にも珍しい国際墓地。

元亀元年(1570)の長崎開港以来、長崎に来航した中国人は、稲佐や水の浦といった対岸地区に多く居住した。中国人と稲佐の結びつきは、元和(1615〜1624)の初め頃、欧陽華宇(おうようかう)と張吉泉(ちょうきっせん)らが稲佐の悟真寺を菩提寺として100間四方を墓地に定めたことで、より緊密になった。悟真寺は浄土宗で、慶長3年(1598)に聖誉玄故(せいよげんこ)によって開かれた寺院である。


唐人墓地祭場所石壇
(市指定史跡)

寝墓が特徴的な
中国人墓地

 

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