横浜、神戸と並ぶ中華街・新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた街。
東西、南北あわせて約250mの十字路は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力でできた石畳。現在、中華料理店や中国菓子、中国雑貨など約40店舗が軒を並べています。
<中華門>
中国との貿易が盛んに行われた江戸時代(元禄)、出島に住むオランダ人と同様中国人についても居留地が設けられました。唐人屋敷(唐館)は、総面積約9,360坪、役人詰め所や、大門、二の門、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などがあり、高い練塀をめぐらせ、出入りは出島と同様厳しい制約がありましたが、中国人たちの出入りは比較的自由でした。
市内に在住する中国人は1万人ともいわれ、当時の長崎市の人口が6万人でしたから、たいへんな数の中国人でした。
中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていましたが、1698年の大火で荷蔵が喪失したので、二度とこのようなことが起きないようにと、唐人屋敷前面の海面3,500坪を埋め立てて隔離された荷物倉所を造り、この場所は新しく築地によってできた場所という意味で、「新地」とか「新地蔵所」と呼ばれました。(中華街の中央に新地蔵(しんちぐら)跡の石碑が建てられています)
明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作ってきました。